防災月間に想う パート2

9月16日に、台風18号が東三河を突き抜け、全国各地でまたしても大きな災害が発生しました。田峯でも被害を受けた家があったと耳にしています。心からお見舞い申し上げます。

さて、9月は防災月間。学校でも、新学期早々、抜き打ち避難訓練や振り返りの時間を設け、いつやってくるか分からない天災に対する備えを子ども達と一緒に考えました。

◎震災と人権シンポジウムに参加して

教頭 近藤 誠

9月11日、東日本大震災から丸2年半がたちました。「峯っ子だより」では、一昨年の9月号において、校長が被災地のようすをレポートいたしました。今夏、宮城県石巻市で開かれた研修に参加する機会があり、その前後の時間を使って被災地のようすを見てきましたので、研修の内容を含めご紹介します。

1 復興事業は進めども・・・

今回、宮城県北部の海岸沿いの市町(気仙沼市、陸前高田市、石巻市)を訪ねてみました。気仙沼は、津波で市街地に座礁した船の姿が象徴的に取り上げられてきた市です。岩手県側から市内に入りましたが、海岸からかなり離れたところで、おびただしい数のユンボやダンプカーが動き、宅地の造成を進めているようでした。その際にはまだ震災ゴミの山が残っていましたが、量的には少なくかなり処分は進んだようでした。海岸端に近づくと目に入ってく るのは、津波に流された住宅の基礎跡が累々と広がっていました。目を山側に転じると、被害に遭わなかった家々が立ち並んでおり、まさに運命の分かれ目を感じずにはいられませんでした。ただ、救いだったのは、仮設の集合商店に集まった多くの人たちが楽しそうに談笑する姿を垣間見ることができたことでした。

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(写真)津波に堪えた「奇跡の1本松」。その後、残念ながら塩害で枯れたためレプリカとして加工を施しい、陸前高田市の震災メモリアルになっています。

 

  次に尋ねたのは陸前高田市です。ここは、「奇跡の一本松」を復興のシンボルに掲げて町の再生を目指している所です。大きな被害を受けた港の再建工事と並行し、「下水処理施設」の建設が急ピッチで進んでいました。住宅地が震災前より海岸から離れた所に造られていくのでしょうが、人が住まうためにはインフラ(生活の基盤)の整備が不可欠です。かつての賑わいとともに、地震・津波に強い街づくりをめざして、復興事業が鎚音高く続けられている様子が見て取れました。

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 (写真)津波に堪えた「奇跡の1本松」。その後、残念ながら塩害で枯れたためレプリカとして加工を施しい、陸前高田市の震災メモリアルになっています。

最後に、ぜひお伝えしたいと思ったのが、石巻市へ向かう途中で見かけた無残な校舎の姿です。とりわけ、全校児童・職員合わせ80余人もの命が奪われた石巻市立大川小学校の無残な姿には胸が詰まりました。北上川と急峻な山に挟まれた平地にあった学校は、10メートルを超す津波にあっという間に呑みこまれたということです。学校の管理下にありながら多くの犠牲を出してしまったわけですが、皮肉にもこの学校が地域の災害避難場所に指定されていたということです。image

(写真)モダンな造りだった校舎は見る影もありません。傍に建てられた慰霊塔(右)には献花が絶えず供えられ、悲しみの深さを感じます。

想像を絶するような自然災害の発生を予知することができない今、命を守るために自分はどこまで冷静沈着に行動することができるのだろうか、また日頃からどう備えればよいのだろうかと、答えの出ない問いを繰り返しながら、慰霊塔に手を合わせてきました。

2 シンポジウム「震災と人権」から

会の冒頭、主催者代表の方からこんな話がありました。

「震災から2年半を経ても、なお10万余の方が避難生活を強いられています。震災関連死も後を絶たない今、何よりも大切にしていかなくてはならないことは、物資の支援だけでなく被災者の心の復興を図っていくことです。」

復興支援は、「被災者が100人いれば100通り」といわれるほど、細やかさを必要とする新たな段階に入っているといえるようです。

このシンポジウムでは、4人のパネリストの方から支援活動にどのように取り組んでいるか詳しく報告があり、その後聴衆との質疑応答を行いました。要点を簡単に紹介します。

◎「あまちゃん」にも登場したミサンガ

友宏裕一氏(社団法人つむぎや代表)

牡鹿半島の小さな漁村に支援ボランティアとして入った氏は、津波で仕事を失った漁師の奥さんたちに働きかけ、漁網の補修糸を利用して作ったミサンガや半島に多数生息する鹿の落とし角を使った加工品を商品化し、漁村の生活再建(生計と生きがいづくり)をサポートし続けているそうです。

◎「共に助け合う」被災者へ

奥田知志氏(共生地域創造財団主宰)

氏は、元は九州各地で路上生活者の生活支援活動を行っていたそうですが、震災をきっかけに、こうした生活困窮者を被災地に送りこみ、漁村の再生を通して互いの生活自立を促す活動を続けているということでした。被災した漁村の多くの方が、「津波がなくてもどのみち村はなくなっていた。助けられるばかりでは心苦しい」と考えていたそうですが、生活困窮者と助け、助けられる関係のなかで、もう一度村を再建しようという意欲を高めているのだそうです。

◎息長く被災者の健康を見守るために

…鈴木るり子氏(岩手看護大学教授)

地震・津波から折角生き延びながら、体や心を病み亡くなっていく方が今後増加することは、阪神淡路大震災の教訓として生かされています。岩手県大槌町では、保健師による全町家庭訪問を実施し、住民一人一人の体調管理を長期的に監視していく体制を取っているそうです。家や町、人間関係を喪失したショックは心的外傷として心の奥深く刻まれ、今後も予断が許されない状態になるといえるのだそうです。

*以下、略

2020年10月

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