峯っ子だより  2月号

国が違えば、急須も・・・

5,6年担任 伊藤英治

さて、1月17日から第8回目のアメリカ訪問がありました。前回の第7回と合わせ2回もアメリカ訪問に行かせていただきました。2回目ともなると精神的にも多少余裕が生まれてきます。今回も時差ぼけには苦労しましたが、料理をおいしく食べられたのはきっとそのせいだと思います。おかげで帰国のときには、お土産のたくさん入ったスーツケース同様、私の体も重たくなっていましたが・・・。

さて、ホームステイ先での出来事です。校長先生と私はウィンザー小学校の幼稚園の先生をしているエイミーの家にホームステイさせてもらいました。いろいろともてなしてくれるエイミーに、ぜひ、日本式のもてなしをということでお茶(日本茶)を入れることになりました。お茶の葉は校長先生が日本から持っていってくれましたが、肝心の急須が見当たりません。ショッピングモールに連れて行ってもらったときに急須を探しましたが、あることはあったのですがエイミーと旦那さんの2人用としてはちょっと大きすぎて買わずに終わりました。しばらくしてエイミーのもとへ電話があり、友達がティーポット(急須)を持っているとの情報が・・・。これで万事ととのったと思ったところに届いたのがこの急須でした。(写真参照)さすがアメリカ、茶漉しの網が付いていない。でも、何とかなるだろうと中をのぞいてみると・・・?んんっ?果たしてこれでお茶が入れられるのだろうか?と悩んでしまいました。お茶の葉をのせるのはきっと網目の部分だろうと予想できます。でも、お茶っぱを入れても、そこまで湯がこなければお茶は出ません。(図①参照)逆にお湯を入れ過ぎたら、間違いなくお茶っぱは急須の中に入ってしまい、そのまま出てきてしまいます。(図②参照)エイミーに「他の部品はなかったの?」と聞いても、「渡されたのはこれだけだけど・・・」との返事。うーん、しばらく急須とにらめっこ。いろいろな角度から眺めてみたり、中をのぞいたりしていました。エイミーもちょっとあきらめ顔になっていたとき、ある部分に気がつきました。それは急須のお尻のほうにある出っ張り部分です。「何でこんなところが出っ張っているのだろうか、おおっ!これを使えば急須を傾けることができる」ということに気がつきました。急須を傾けることによって、お茶っぱをお湯で蒸らしながら、元に戻すとお茶っぱは上の網目の部分に残って出てこないという仕組みになっていました。(図③参照)この仕組みがわかったときには正直感動しました。急須を傾けるなどという発想は日本にはないものです。(私が知らなかっただけかもしれませんが)急須を洗うときにいつも大変なのが茶漉しの網目に残るお茶っぱです。でも、この急須なら水洗いだけでもお茶っぱを一気に取ることができます。うーん、さすがアメリカ、合理的!と妙に納得しながら、日本のお茶でティーブレイクをしました。

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発想を変えなくてはと感じたのは、英語での会話も同じです。会話の中で、頭に思い浮かんだ文をそのまま英語にしようとすると、必ず英語に訳せない単語が出てきます。日ごろ自分達が使っている日本語の中に意外と難しい単語を使っていることに気づきました。(英単語をたくさん知っていれば問題ないと思いますが)まず、頭の中に思い浮かんだ日本語文を、次に自分の知っている英単語で言えるような文章に変換します。そしてようやく英語に翻訳・・・、という流れで頭の中はフル回転していました。思ったことをそのまま言葉にしようとすると、それが訳しきれなくてなにも出てこなくなることもしばしばありました。日本に帰ってきて、改めて気持ちが伝えられることのよさを感じました。また、英語を聞きとる耳についても感じることがありました。それは、気持ちの問題です。特にアメリカに来て最初の時は緊張しているので、相手が英語で話しかけてくると、何か難しいことを言っているのでは!?と身構えてしまいます。それが、英語を聞きとる時の障害になったと思います。立場を逆転し、日本に来た外国人に何を話そうと思うでしょうか?いきなり難しい込み入った内容の話などはしないはずです。「同じ人間なんだ」と大きく考えれば、気持ちも楽になって、聞き取る耳も澄んでくるのかもしれません。

私もアメリカでの思い出を自分から作ってみようと考えました。イリノイ大学クラナートセンターでのこと。私は歌舞伎の浄瑠璃を流す役でした。クラナートセンター専属の音響係、ブラッドと音の大きさやスピーカーの位置などいろいろと相談しました。ブラッドはまだ若く、おとなしいアメリカ人でしたが、こちらの要望にこたえようといろいろと動いてくれました。私は小心者で積極的に動く方ではないのですが、「もう2度と彼と会うことはないだろう」と考えると、何か思い出になることを残しておきたいと思いました。私が紙とペンを渡し、「名前をここに書いてくれ」というと、Brad Chapinと書いてくれました。これも一つの思い出に残るだろうと大切に日本に持ち帰ってきました。歌舞伎終了後、ブラッドに感謝の気持ちを伝えに行くと、ブラッドも紙とペンを持ってきて、「ここに名前を書いてくれ」と私に差し出しました。私もそこにサインをしてから、一緒に写真を撮ってくれるように頼むと、彼も快く引き受けてくれました。訪米記念誌には載りませんが、個人レベルでの交流が少しはできたのではないかと思います。

ただ、一つ心残りなのは自分のサインを書くときにローマ字で書いてしまったことです。「漢字」という日本人の心を忘れ、アメリカに迎合してしまったかなと自らの小心ぶりを反省しています。

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田峯観音奉納歌舞伎

熊 谷 多 英

clip_image010今年は日曜日と重なり、また連日の新聞掲載によって、大勢の方々に足を運んでいただき大盛況で幕を閉じた歌舞伎。

毎年ながら、皆様たいへんたいへんお疲れ様でした。

「よろこんでくれたかなあ?」(穂澄)

「誰が?」(私)

「かんのんさま」(穂澄)

「なんで?」(私)

「だって、ほうのうかぶきでしょ」(穂澄)

そうでした!! 観音様への奉納歌舞伎です。

助けて頂いたお礼に、歌舞伎をやって見てもらうのです。もう何百年も続く、感謝の気持ちをこめて・・・

毎年新しい年を迎えると、今年は何をやるのかな? どんな役をもらうかな? セリフは、所作は覚えられるかな? 練習が続く、カゼをひかせないようにしないと・・・。

心配と憂うつとで気持ちがいっぱいになってしまいます。

そんな気持ちのせいか、子供たちのセリフの練習は家では険悪な空気の中はじまり、そのうち私の前では練習をしません。ついつい厳しく口を出してしまう私に「じゃあ母ちゃん、やってみりん」と何度言われたでしょう。

それでも上達していく様子は日ごとに分かります。

初日から台本なしで稽古が進められた1・2・3・年生。帰国翌日から稽古が始まった4・5・6年生。覚えの早さはさすがです。

師匠さんのご指導はもちろんですが、冬休み第2弾中から自主練をしてくださった聖子先生、アメリカ訪問で忙しかった希世美先生、おととし五人男をやった5・6年生のアドバイス。練習を見た方々のお褒めの言葉とアドバイス。どれもこれもが上達のヒントとなり、自信となったことでしょう。

私が教えることのできない事を教えてくださる人達が近くにいて、教えていただけることは、とてもありがたいことです。

私が気付かないうちに、いろいろなことを得ている子供の姿・様子にはいつも驚かされます。ありがとうございます。

「頑張ったね」「上手だったよ」「とってもカッコ良かったよ」

終わったあと大勢の方に声を掛けていただきました。子供たちの嬉しそうな、満足気な笑顔はとても誇らしかったです。

きっと来年も一所懸命に、いくつもの感謝の思いをもって奉納歌舞伎を見せてくれるでしょう。

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