本校生徒、3年加納さんが、見出しのコンテストで入賞しました。名古屋法務局にお許しを得て、新城支局のご協力により作品を掲載します。
東栄町の地元プロ太鼓集団が取り組んでいる事業も伝わってくる、素晴らしい作品です。
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わたしの「出会い」
「ドン、ドン、ドン・・・。」
太鼓フェスティバルのリハーサル。ばらばらで統一感のない太鼓の音が会場全体に響き渡る。まだ幼かった私は、こんな演奏のどこがいいのかと思っていた。
私が初めて障がい者の方たちと身近に接したのは「障がい児・者 太鼓フェスティバル」の会場だった。太鼓は一人でやるものではなくみんなと一緒にやるものだ。年に1回発表会をすることで、障がいがある人も、その日に向けてみんなでがんばれる。このフェスティバルは、そんな意味のある催しだった。
でも私は、会場を走り回る人、急に奇声を上げる人など、今まで見たことのない人たちとどう接していいか分からず、呆然としていた。周囲の人たちが、障がい者の方たちに笑顔であいさつをしたり、ほめたりする姿を見て、何もできていないのになぜそんなふうに言うのか、なぜ普通に接することができるのかとても不思議に思っていた。
その後、小学校の授業で、「人権」について学習する機会があった。世界中にはさまざまな差別がある。男女の性別、人種、国籍、家柄、そして、障がいのある人への差別。私が今までしてきたことは、差別に当たるのではないかと思った。そして、なぜ怖がったり、避けたりしたのだろうかと思った。
その後、再び、「障がい児・者 太鼓フェスティバル」に行く機会があった。その日私は、一つ決めていたことがあった。それは、誰とでもきちんと向き合うことだ。
フェスティバルに来ているほとんどの人が、誰かに付き添ってもらっている。障がい者の方も付き添いの方も、みんなが誰にでもあいさつをしている。今までの私は、あいさつをされても小さい声で返事をし、愛想笑いしかしていなかった。私は変わろうと思った。今日あいさつをされたら、しっかり大きな声で返事をする。また、相手の目を見て話したり、笑顔でいたりしようと思った。勇気を出して相手ときちんと向き合おうと思った。
すると、世界が180度がらりと変わったのだ。自分が笑顔で返事をしたり、相手の目を見て話したりすると、相手も笑顔で返事をしてくれたり、いろいろなことを話してくれたりする。もちろん、相手も私の目をしっかり見てくれる。話ができることがうれしくて、自分が変われたこともうれしくて、もっともっとたくさんの人と話したいと思った。
それから、一年後、小学校4年生のとき、「若竹荘チャリティー公演」があった。「若竹荘」というのは、障がい者の方たちのための作業所や自立をするための家、パン屋や保育園を経営している場所だ。
私はそこで、一組の夫婦に出会った。奥さんは車椅子に乗っていた。私がそのことを気にしていることに気づいたのか、
「交通事故にあってね。下半身が動かなくなっちゃったの。」
と、笑顔で話してくれた。なぜ笑っていられるのだろうと、私は不思議に思った。話をしてるうちに、その人は絵手紙を描くのが好きだと分かった。見せてもらった。その絵を見たとき、私は思わず涙を流してしまった。その絵からその人の優しさと生きる強さを感じたのだ。二人に心配させてしまったと思い、謝ろうとすると、
「私、あなたに絵を描いてもいいかしら。」
と聞いてきた。私は、
「もちろんです。」
と答えた。
次に会ったとき、一枚の色紙を手渡してくれた。そこには、今は亡き我が家の愛犬の絵と、彼女の言葉が綴られていた。私が話した愛犬たちの話をよく聞いて、その様子を想像して描いてくれたのだ。その絵を見ていたら、かわいかった犬たちのことを思い出して、また、涙が流れてきた。その人の絵には、私が忘れかけていた優しさや強さを与えてくれる力があった。
体に障害があっても、生きることへの希望を強く抱いているこの女性を、私は一人の人間として尊敬する。
「障害」それは、とても重い荷物のようだ。でも、それはその人が生きていく上で最大の武器にもなるのではないだろうか。今を当たり前のように生きている私たちに比べ、今を一生懸命生き、生きていることの喜怒哀楽を体全体で受け止め、体全体で表現している。そんなふうに見える。私より充実した日々を送っていると思えた。
私は「障がい児・者太鼓フェスティバル」に足を運んだことと、一組の夫婦に出会ったことで、自分自身が変わることができた。これからは、どんな人にも、優しく強い手を差し伸べられる人になりたいと思う。